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【ネタバレあり】なぜ『風立ちぬ』がないんだ…! ジブリづくしの夏に唯一の不満、同作の魅力を語らせて!!
既報のとおり全国の劇場で『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『ゲド戦記』の4作品が異例のヒットを記録中。
さらに「金曜ロードSHOW!」では3週連続でスタジオジブリ作品をノーカット放送。8月14日『となりのトトロ』、8月21日『コクリコ坂から』、8月28日『借りぐらしのアリエッティ』という豪華ラインナップとなっています。まさに今年はジブリづくしの夏!
が、筆者はいいたい。なぜ『風立ちぬ』がないのかと。評価の分かれる作品であることも 、昨春に放送したばかりだというのも承知しているけれど……新型コロナと闘う今こそ見るべき作品じゃないか! メフィストフェレスとか魔の山とか、難しい暗喩がわからなくても大丈夫な同作の魅力をぜひお伝えしたい。
・生きること、死ぬことの物語
この作品への評価はおそらく賛否両論。胸のすくような冒険活劇でもなく、少年少女の成長物語でもなく、心理描写は難解で哲学的。好みじゃない、というのを通り越して「何を伝えたいのかまっっったく理解できない」という声もあるのでは。
本作は「生と死」の物語。背景に、昭和初期の暗い時代設定があります。飛行機は最初から爆弾のイメージとともにあり、関東大震災、金融危機、あふれる失業者、特高警察による取り締まりと、物語の随所で観客をどこか不安にさせるような、不穏な空気が流れています。謎の人物カストルプも不吉な予言をしますね。
零戦を作った天才設計者が主人公ということで、戦争賛美だという批判も一部で聞かれましたが、物語全体をおおう暗さは、宮崎監督がこの時代を悲痛なものとして捉えていることを色濃く示しています。
菜穂子のかかっている結核は、当時「亡国病」と呼ばれた不治の病。そしてユーミンの主題歌『ひこうき雲』は若くして亡くなる「あの子」を歌った死の歌です。常に画面にただよう死の気配……。
それでいて軽井沢での2人は、子どもみたいにはしゃいで青春の輝きを見せます。暗い時代の中にあっても、確かな希望や前向きさが感じられますよね。「死」の悲しさや虚しさと、「生」の輝きとが1つの映画に同居しているのです。
本作のキャッチコピーは「生きねば。」(実は漫画版『風の谷のナウシカ』最終巻・最終コマの言葉!)
そしてポール・ヴァレリーの「風立ちぬ」の詩と、「自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである」という宮崎監督の企画書……
この映画のテーマをひと言で表現するならば「どんなつらい時代でも、人は力を尽くして生きなければならない」ということだと思います。時代だけでなく、生まれた場所、性別、家族、健康状態、仕事などなど、自分の力ではどうしようもできない環境の中でもベストを尽くすべきだ、という力強いメッセージを感じるのです。
・淡々とした表現は意図的
物語はひたすら淡々と進んでいき、ちょっと退屈ともいえます。「3~4日に起こった出来事」を描くことが多かったというジブリ作品の中で、本作は30年にわたる1人の人間の生涯を描いています。「設計者の日常は地味そのものであろう」とは宮崎監督の弁。
作中で心の師カプローニが二郎に「創造的人生の持ち時間は10年」というアドバイスを与えます。狭い意味では「ものづくりの才能を発揮できる期間」でしょうが、筆者は「人が輝ける時間」だと受け止めました。
サラリーマンにせよ、スポーツ選手にせよ、もしかしたら恋愛のような人と人との関係も、スポットライトが当たったかのように輝けるのはせいぜい10年なんじゃないかと。連続した10年でなくとも「あのときはよかった」と思える時間。
それ以外の時間というのは、食べて仕事して寝て……同じような日常の繰り返しで、ドラマチックなことなんて起きやしない。人生の99%はそもそも、めちゃくちゃ地味なものだと思います。ごくたまに訪れる幸福な瞬間のために、日々つらいことや、つまらないことを繰り返しているのではないかと。
その営みをリアルに描いているのが『風立ちぬ』なんじゃないかと思います。感情の嵐は起きないけれど、見終わってからジワジワと胸にしみてくる。まさに人生そのもの。それが本作の魅力です。
・二郎は冷たい男か?
この映画の評価を分ける遠因に、キャラクターに共感できない、ということもあるようです。よく評されるとおり二郎は飛行機オタクです。宮崎監督の言葉を借りると「狂的な偏執」で、寝食忘れて飛行機づくりにのめり込み、ちょっと浮世離れした人物として描かれます。しかし “心” がないわけではありません。
泣きながら東京に向かうシーン、駅で必死に菜穂子を探すシーンなど、深い愛情が感じられる場面がたくさんあります。(というか、マイペースな二郎をあんなに慌てさせられる人物は菜穂子しかいません。相当ホレているんですね)変わり者ではありますが、十分に人間的な人物です。
それなら物語の終盤、二郎は菜穂子を連れ戻したり、あるいは自分が療養所に行って付き添うべきだったでしょうか? 筆者はそうは思いません。どんなにつらくても、与えられた使命をまっとうしなければならない、というのが宮崎監督のメッセージだからです。
余談ですが、本職ではない庵野秀明氏が声優を務めたことについてもいろいろな意見がありました。しかし、宮崎監督がこの配役に大変に満足していたことはよく知られています。
・菜穂子の行動の謎
菜穂子もまた波紋を生んだヒロインかもしれません。特に療養所を脱走してくるくだり。
思うに、菜穂子は病気さえなければ、基本的には快活で行動力のある女性です。そして最初のうちは病気を治して二郎と結婚する、そのために自ら療養所に入って治療をするという前向きな目標がありました。
しかし、その願いは叶いそうもないことに2人は気づき始めます。療養所からの飛び出しや、なかば強引な結婚&同居は「もう残り時間がない」ことを悟った末の行動です。座敷で1人寝たきりになっている菜穂子が可哀想、というセリフもありますが、たぶん菜穂子は幸せでした。二郎を待つ時間や、二郎の仕事を見ながら眠る暮らし。
とはいえ、ささやかな同居生活は、長くは続けられないことが最初からわかっていました。病気の終末期には、食事から排泄まで看護もなく過ごすことはできません。まして二郎にその役目はできないのです。なので菜穂子は療養所に帰りました。
「美しいところだけ、好きな人に見てもらったのね」という黒川夫人のセリフ、これは女性らしさや外見の美しさというよりは、美しい記憶という意味でしょう。
病み衰える姿が汚いということではなく、身体が不自由になったり、恐怖で取り乱したり、病気の進行で苦しんだりする姿を見せたくない、元気な姿だけを覚えていて欲しい。「嫌われる」とか「申し訳ない」という負い目とも違い、ただただ「悲しませたくない」という気持ち。
相手が親であれ子であれ恋人であれ、筆者は結構共感できます。「それでもいいから一緒にいる!」となるかどうかは相手次第ですが。
・結核、移るんじゃ……
ちなみに、何度も登場するキスシーンなど、結核が移るようなスキンシップを平気でするのはまさか道連れ? それとも心中? という疑問はありますが、たぶんどちらでもないのでは。
感染しても発症しないケースが多いこと、家庭で身近な家族が看病する例が相当数あったこと、当時の医学的知識などから、感染の心配については二の次だった、と考えるのが自然ではないでしょうか。菜穂子は二郎が生きることを願っていたと思わせるラストシーンもありますし。
ただ、もしかしたら二郎の方は純国産の戦闘機を作るという仕事を終えさえすれば、自分も死んでもいいというくらいは思っていたかもしれません。菜穂子を失い、また自分の作った戦闘機でたくさんの人が死に、罪を背負っていきますから。
ただしその二郎も、ラストシーンで菜穂子の意思を感じて考えを改めたように思います。これからも生きていく、そんな悲壮な決意を感じます。
・大人向けの作品
『風立ちぬ』は明らかに大人向けの作品です。楽しいこともつらいことも、ある程度の経験を積んだ人にこそ刺さる、そんな作品のような気がします。筆者は126分間、自分の人生と重ねっぱなしでした。
というわけで、人生80年とされる道のりもそろそろ下り坂にさしかかり、酸いも甘いもかみ分けて「創造的人生の持ち時間」を使い切っちゃったかもしれない筆者にはバイブルのような映画になったのでした。「力を尽くして生きているか?」と宮崎監督に問われているような気がします。
夏のジブリにもう1作品、『風立ちぬ』いかがですか?
参考リンク:スタジオジブリ、金曜ロードシネマクラブ
執筆:冨樫さや
Photo:RocketNews24.
【ネタバレあり】今こそ映画館で見るべき! 原作でしかわからない『風の谷のナウシカ』の5つの設定
既報の通り「一生に一度は、映画館でジブリを。」のキャッチコピーとともに、全国の映画館でスタジオジブリ作品を上映している。初週末の6月27日〜28日には『千と千尋の神隠し』『もののけ姫』『風の谷のナウシカ』が動員数トップ3を独占した。
これらが日本を代表する名作であることに異論はないだろうが、多くの人にとってはテレビで繰り返し放映され、DVDの1枚くらい持っていたり、なんならセリフまでいえてしまう「見飽きた」作品ではないだろうか。そんな人にこそ映画館で見て欲しい!
ストーリーなんてとっくに知ってる、という方に向けて、より理解が深くなる「原作でしかわからない設定」5選をご紹介。ただし映画を1度も見たことがない人にはネタバレになるので注意願いたい。
・その1. 映画の内容は、全体のほんの序盤である
有名な事実だと思うが、原作は雑誌『アニメージュ』に10年以上かけて連載された宮崎駿氏の長編漫画である。対して映画版は上映時間わずか116分。原作の「ほんの序盤を」「大幅に設定を変更して」「主要な要素だけを取り出し」再構築したものである。
物語としては「別物」といってもいいくらいだが、静から動へ劇的にシーンが切り替わるスピード感や、音楽による盛り上げはアニメならでは。声優陣の名演により、キャラクターの個性も際立っている。淡々と進む原作漫画に比べて、ダイナミックな感動が得られるのが映画版だ。
・その2. あの不気味なシーンの意味
映画版でのナウシカは、とにかくかっこいい。風を自在に操り、誇り高く勇敢で、危険が迫っている人がいれば迷わず駆けつける。生まれながらの指導者であるかのように人を導く意志の強さがあり、それでいて少女らしい明るさや無邪気さも見せる。
序盤から終盤まで見せ場の連続で、誰もがナウシカの活躍に胸がスカッとし、とりこになるのではないだろうか。
その一方で「ラン、ランララ、ランランラン〜」という印象的な音楽が流れる幼少期の回想シーン、あそこになんともいえない不吉なものを感じる人も多いだろう。「あのシーン要る?」「なにを意味してるの?」と思うかもしれない。
原作ではもっと掘り下げられるのだが、蟲(むし)と心を通わせることは、自然豊かな風の谷にあってもタブーに近いことだ。ナウシカは小さい頃から蟲や腐海(ふかい)に特別な関心を寄せる子どもだったことがわかるが、それは決して褒められたことではない。
もっとも身近な存在である城おじのミトにも「人よりも蟲の運命に心を寄せているのではないか」と不安がられる場面がある。人間の世界においてはちょっと異端の存在、それがナウシカだ。
ナウシカのモデルとなったのはギリシャ叙事詩『オデュッセイア』のナウシカア(ナウシカアー)ともう1人、日本の古い説話「虫めづる姫君」だという。貴族の娘が年頃になっても身なりに構わず、虫ばかり追いかける変わり者で……というお話。
おそらく「誰からも理解されない孤独」はナウシカの心の奥底にずっと巣くっている。原作の父ジルは映画よりもずっと厳格な印象を与え、また「母からは愛されなかった」という記述もある。映画はエンターテインメントらしく大団円で終わるが、ナウシカの旅はその後も原作で続いていく。
・その3. クシャナは実は部下に愛される名将
トルメキアの皇女クシャナ。映画版のクシャナは辺境の地に侵攻してくる冷酷で傲慢な暴君として描かれ、ある意味「わかりやすい敵役」になっている。同じく統率者の娘でありながら、民から慕われるナウシカとの対比が鮮やかだ。
映画版のボリュームではとても彼女の背景まで描いている時間がないためやむを得ないのだが、原作のクシャナは家族との葛藤を抱え、部下の死を悼む(いたむ)人間味のある指揮官である。部下からの信頼も厚く、彼女に忠誠を誓う兵士がたくさんいる。
そのカリスマ性のために実の父や兄からも命を狙われ、厄介払いのように辺境に追いやられているのが実情だ。ちなみに片腕を奪われたために蟲を嫌悪している、というのは映画だけの設定。
ナウシカは彼女を「深く傷ついた鳥」「本当は心の広い大きな翼をもつやさしい鳥」と評す。最終的にクシャナは民衆を率いる優れた統治者になる。
・その4. クロトワはいい男
映画版では「クシャナの側近の小悪党」というくらいの存在だが、参謀クロトワにも背景がある。実態はクシャナを監視するために本国から送り込まれたスパイであり、クシャナの処刑までが計画に組み込まれている。
ただ、賢いクシャナは映画版でもクロトワを「タヌキ」と呼び、思惑に気づいている。お互いに「油断ならない」と思いながら、利用し利用される「大人の関係」がクシャナとクロトワである。
任務の成否にかかわらず、平民出身のクロトワは自分が口封じに抹殺されるであろうことも自覚している。たたき上げの凄腕パイロットでもあり、原作でクシャナの窮地を救う場面は思わず惚れ直すかっこよさである。当初は保身のためにクシャナを利用しようとしたクロトワも、次第に彼女の人間性に触れ、本当の右腕になっていく。
・その5. 最終的には生命の選択の話になっていく
映画版でナウシカは腐海の秘密の一端に触れる。毒の森だと思っていた腐海は、実は何百年もかけて大地の浄化をしており、王蟲(おうむ)は森を守る存在である。
対して人間はといえば、残されたわずかな土地を巡って戦争を繰り返し、人間同士で支配・被支配の関係を作り、人工生命体を生み出す古代の科学技術まで兵器として利用しようとする。
原作でも物語が進むにつれ、人間の愚かさ、残酷さ、罪深さがはっきりしてきて、ナウシカでなくともいっそ世界は腐海に飲まれた方が幸せなんじゃないかとさえ思えてくる。
「みんなの願い」というショートストーリーをご存じだろうか。神様から「みなの中でもっとも多い願いを1つだけ叶えるから決めておくように」といわれて、人類の指導者たちはあれこれ思案する。しかし、当日になって神様が叶えたのは「人類の消滅」だった。人間よりも遥かに多い自然界の生物たちの最大の願いは、人類がいなくなることだった……という話。
皮肉のこもったSFショートショートなのだが、笑えない話である。地球上に生きる多くの生命からすれば、人類こそが諸悪の根源、という考え方は納得できるものがある。
先述の通り、人間よりもむしろ「あちら側」に近い存在のナウシカには、何度も「誰も傷つかない、清浄で完璧な世界」を選ぶチャンスが訪れる。
実際にはその楽園も仕組まれたものという二重構造があるのだが、ナウシカは権力者の欲望が生み出す怨霊や生物兵器にさえ等しく慈愛の心を持つ。「私はこちらの世界の人達を愛しすぎているのです」は名セリフだ。
人間の心からあふれ出す闇さえも「自分のもの」として抱え込み、苦しみながら、人として生きるナウシカの物語、それが原作漫画である。
・ぜひ映画館で見て欲しい
『風の谷のナウシカ』とは、あまりに有名すぎるので「知っているつもり」になる映画だ。「その者、青き衣をまといて……」のセリフなんて、もはやネタといっていいくらい使い古されている。
しかし、ぜひ今一度、映画館で一瞬も目を離さず見てみて欲しい。テレビだとCMが入る度に集中が途切れるし、スマホに気を取られたりトイレに立ったりすることもあるだろう。しかし映画館では世界に没入できる。筆者がそうだったように、改めて見るときっと「こういうストーリーだったのか」と開眼する。
原作漫画は徳間書店から全7巻で販売中。哲学的で難解なところもあり、なにより映画版とまったく違うストーリーで人を選ぶかもしれないが、こちらもぜひ一読してみて欲しい。
【劇場公開中】人生で初めて『もののけ姫』を鑑賞したら想像と全然違う話だった!!
2020年6月26日から、全国の300を超える劇場でスタジオジブリの名作が放映開始となっている。恐れながら、私(佐藤)が最後に劇場でジブリ作品を見たのはたしか19歳の時の『紅の豚』だ。それ以来、約30年にわたって劇場で見ていない。
そんな私が、TOHOシネマズ新宿に『もののけ姫』を見に行ってみた。まさかスクリーンでこの作品を鑑賞する日が来るとは、思ってもみなかったぞ! 実際に見たところ、勝手にイメージした作品と全然違ってビックリした。とても深く考えさせられる作品であった。
・キャラの名前しか知らない
現在放映されているのは、『もののけ姫』のほか、『風の谷のナウシカ』、『千と千尋の神隠し』、『ゲド戦記』の4作品である。いずれも有名だから、作品を見たことがない人でもタイトルを聞いたことはあるだろう。『紅の豚』以降見ていない私でも、これらすべての作品名を知っている。
ちなみに、私はナウシカだけテレビで何度か見たが、他の3作品はテレビでも見たことがない。ただ、なまじっか登場人物の名前を知っている分、ムダに知識をつけていて厄介な状況だった。
たとえば、もののけのアシタカ? とか犬神様? とか。千と千尋のユパ様? 違う、ユバーバだっけ? カオナシとかなんとか。全部その名前だけ知っている。作中の役どころとか、ストーリーそのものは全然知らない。
・勝手にストーリーを妄想していた
実際にTOHOシネマズで133分の作品を見終わった率直な感想は、「とても面白かった」だ。そんなの当たり前だろ! とお叱りの言葉を受けるかもしれないが、どうか許して欲しい。リアルタイムの放映時(1997年)に見るタイミングを逃したまま、まさか23年も経過してしまうとは思わなかったんだ。
あの当時、遠恋してた彼女にも言われたんだよ、「(もののけ姫)見て」って。でも、その言いつけを守らずに別れたまま、月日は流れた。彼女が2児のママになっている……。
さて、鑑賞前に私が勝手にイメージしていた設定は次の通りだ。
佐藤の妄想イメージ
「山奥の村に住むアシタカは、村を守る青年。その村は俗世間との交流を持たず、自然に根差した暮らしをしていた。ある日、近くの城が使いを出して交流を迫ったが、村のならわしにのっとって、その申し出を断る。すると、城から軍勢が攻めてきた。アシタカはもののけ姫に変身してこの軍勢と交戦する。村を守る巨大な犬のシシ神が戦闘に加わり、城の軍を蹴散らして無事に勝利。再び村は平穏な暮らしを取り戻して、めでたしめでたし……」
多少、妄想を誇張しているものの、おおまかにはこんな話ではないか? と想像していたのである。だが、実際に見ると全然そんな薄っぺらい話ではなかった。
・鑑賞した感想
内容に触れない形で印象に残ったところを紹介したい。まずはエボシ御前の存在だ。森の生き物たちにとって敵なのに、人情味のある人物であることがうかがえる。冷徹極まりない判断を下す場面もあるが、それにしても面倒見が良くタタラ場の人たちに深く慕われている点は興味深かった。
森側の理屈で見れば冷酷非道な暴君なのに、人間側の理屈で見ると慈愛に満ちた頭の切れるリーダーだ。作品を見ていると、その両面がずっと見えているので、割り切れない気持ちになった。
そして、サン(もののけ姫)の存在の落ち着きの悪さ。この作品がなぜ『もののけ姫』と名付けられたのか? と不思議に感じるくらい、その存在感は薄い。個人的には『アシタカ』という作品名でも良かったのではないかとさえ思えるほど、最初から最後まで話はアシタカ主導で進む。
同じ宮崎作品でもナウシカとは比べものにならないほど、サンの出番は少ない。とはいえ、人として生まれもののけに育てられた彼女の存在が、作品に大きな意味をもたらしているのは言うまでもない。
そんな訳で、私の妄想とは大きくかけ離れた素晴らしい作品だった。まだこの作品を見たことがないという人は、劇場に足を運んでみてはいかがだろうか。名作と呼ばれる理由がわかるはずである。