本日2020年8月21日の金曜ロードショーは『コクリコ坂から』だ。2011年に公開された宮崎吾朗監督第2作目のスタジオジブリ映画である。ジブリが好きな私(中澤)だが、実は『コクリコ坂から』を見たことがない。なぜならば……
『ゲド戦記』を見た時に「宮崎吾朗監督作品はもう見るまい」と思ったから。しかし、第2作目が公開されているのに、いつまでも処女作のイメージだけで評価しているのもどうなんだろうと思ったので、『コクリコ坂から』を公開から8年目にして初めて見てみた。その感想をネタバレなしで正直に書きたい。
・ゲド戦記のトラウマ
「コクリコ坂は良い」──。そんな噂は聞いていた。だけど、私が公開から8年も見なかったのは『ゲド戦記』での肩透かし感がトラウマとなっていたからだ。私が『ゲド戦記』を見たのは映画館。スタジオジブリの新作だし、CMの壮大な感じに「待ってました!」と思ったことを覚えている。
しかし、フタを開けてみればポカーン。主人公アレンの行動は意味が分からない。いきなりお父さんを殺して逃げて鬱って。「キレる14歳」「キレる17歳」と呼ばれ続けてきた1982年世代の私でも全く共感できないのである。
そのため、勝手に話が進んで映画館の中で置いてけぼりにされているような感覚に陥った。もちろん、深い意味はあるのかもしれない。だが、それが感覚的に伝わってこないのって映像作品の監督としてはダメなんじゃないだろうか? 解説を読むのが楽しいエヴァンゲリオンとかは謎がめちゃんこ分かりやすく提示されているし。
まあ、つまるところ、私の感覚は宮崎吾朗監督の感覚とはちょっと合わないかもしれない。映画館でそう痛感してしまったため、映画『ゲド戦記』を見て以来13年間触れられなかったわけだ。しかし、この度『コクリコ坂から』を初めて見たところ、そんな『ゲド戦記』との違いを感じた。
・意味が分かる
まず、『コクリコ坂から』は意味が分かる。主人公たちがなぜ辛いのか。なぜワクワクするのか。同じ目線で感覚的に感じることができる。いきなりディスってるみたいな言い方になってしまったが、これはもの凄く重要なことだ。
なぜなら、『コクリコ坂から』が描くのは昭和38年の学生の青春。現代よりも50年以上昔であり、その古き港町の風景はもはやファンタジーですらある。同じ日本でも何もかもが今と違うのだ。
にもかかわらず、今を生きるオッサンにしてアンチ吾朗の私の色眼鏡でも共感できたのである。この時点で少なくとも、ゲド戦記とは違う。
・見どころ
次に、『コクリコ坂から』には見どころがある。それが学校にある由緒ある建物「カルチェラタン」だ。物語の中心でもある古いクラブハウス・カルチェラタンは男子学生たちの巣窟。
特に、ヒロイン・海が入り組んだ内部を進んでいくシーンの、知らない世界が開けていくようなワクワク感はまさにジブリ! 『千と千尋の神隠し』で千尋が神々の世界へ迷い込むシーンや、『耳をすませば』で雫が「地球屋」を見つけるシーンを彷彿とさせる。
・ストーリー
そんなカルチェラタンの取り壊しが持ち上がったことから、女子学生と文化部の男子生徒が団結するのが『コクリコ坂から』のストーリー。学生運動が最盛期を迎える少し前くらいの時期を描いているため、めちゃくちゃだが活気のある学生たちのドタバタ感も『天空の城ラピュタ』とか『カリオストロの城』の頃のジブリっぽい。
・ジブリっぽくないところ
逆に、個人的にジブリっぽくないと思ったのがBGMである。BGMの入り方や選曲にジブリよりも現代的なアニメのセンスを感じた。そのためか、似て非なるものな雰囲気が全編に漂っている気もする。ジブリのオマージュのようなシーンも入るのだが「なんか違う」。ひょっとしたら、この違和感が宮崎吾朗監督独特のセンスなのかもしれない。
・正直言うと
面白くなければ途中でやめるつもりだったが、結局全て見てしまった。正直、「コクリコ坂は良い」と言われる意味が分かったような気がする。ネタバレになるため言えないが、中盤の意外な展開でどうやって終わるのか気になったし。
1つ残念なところをあげるなら、ジブリ飯がいまいちだったこと。次回作『アーヤと魔女』では、ラピュタの目玉焼きトーストやハウルのベーコンエッグなみのジブリ飯の登場を期待したい。3DCGアニメだけど。